《「なりきる」ということ》
先回、「心ここにあらず」というテーマで、心のすき間がネガティブな思考や不快な感情を育ててしまう話をしました。
そして、そうしたことを防ぐには、心のすき間を出来るだけ減らすことが必要だとお話しました。
その時に徹する
そのヒントの一つが、「なりきる」ということです。
「碧眼録」という禅語録に「洞山無寒暑」(洞山に寒暑なし)という話があります。
ある時、洞山禅師に一人の修行僧が来て「寒さや暑さはどうしたら避けられるのでしょう」と問います。ここで言う寒さや暑さは人生の苦難ということです。
すると洞山禅師は「寒さも暑さもない処へ行けばよい」と答えます。その答えに不満な修行僧は「しかし、そんな世界は一体どこにありますか」と詰めよります。すると洞山禅師は「寒いときは寒さになりきり、暑いときは暑さになりきればよい」と答えます。
つまり、寒いとか、暑いとかは心の持ち方次第であり、事実をありのままに受け入れ、そのことに徹することが出来れば、寒さも暑さも苦ではない、というのです。
つまり、人生は諸行無常であって、常に不安である、という心に常住していれば、そこにはじめて大きな安心がある、とも読み替えることも出来ます。それは一種の境地とも言えます。
「なりきる」ことが出来れば、頭であれこれ余分なことを考えることもなくなるということです。
ものごとをなす時の心構え
森田でも、ものごとをなす時の心構えを「なりきる」といい、さまざまな言葉で表現しています。
「現在になりきる」とは、後悔や先々の不安はそのままに、いま目の前にあることに一生懸命取り組むことと説明しています。
「弱さになりきる」とは、自分を大きく見せ空威張りしようとせず、自分の弱さをそのままに、あるがままに認めることが最も強いということです。
つまり、それは『人前でどんな態度をとればよいかという工夫の尽き果てた時であり、そこにはじめて突破、あるいは窮達(なしとげること)が行われるのです』。そして、それは『きわめてたやすくできることであります』と森田は言っています。
弱さというものをネガティブに捉えている限り、絶対至れない境地のように思えますが、それさえ捨ててしまえば行き着ける境地であると森田は言っているのです。
事実を認める
「なりきる」ためには、「自然に服従し、境遇に従順である」であるという心のあり方が必要です。つまり、事実をそのまま認め、現実をあるがままに見ることが前提であるということです。
結果を求めず最善を尽くす
その上で、自分がやろうとしている行動に対して、一生懸命取り組む、結果を求めずその時その時に最善を尽くす、無心にものごとに打ち込む、没入して一体化するということです。
その究極の姿は、心身一如、没入、三昧ということになります。
いま・この時を生きる
そのためには、「いま、この時」自分がやろうとしていることに積極的な関心を持ち「いまを生きる」ということです。
逆に言えば、心にすき間が生ずるということは、「いま、ここ」を一生懸命生きていないということになります。
「いつか、どこか」にある安心や幸せを求めて、心がさ迷っているからこそそうした思いや感情が忍び寄って来るのです。
できることからやる
森田では、不安や悩みはとりあえず横に置いておき、今できることから行動することを勧めています。例えば、近所を散歩することでも、洗濯物をたたむことでも、買い物に行くことでもいいのです。
しかし、散歩には出たけれど、頭の中は悩みごとでいっぱいではこれまでと変わりません。そうならないための心構えが「なりきる」ということなのです。
積極的な関心を持つ
「心ここにあらず」という心のすき間は、ものごとに積極的な関心を持っている時は現れません。
だから、一生懸命取り組む、結果を求めず最善を尽くす、無心にものごとに打ち込む。つまり、「なりきる」のです。
散歩に出れば、目に映る景色、肌をなでる風、暖かな陽ざし、小川のせせらぎ、人々の声などが五感を刺激してきます。それを精一杯受け取り感じ楽しみます。
そして、感じが高まったところでこれまでやらなかったことにチャレンジしてみます。
散歩も同じルートではなく、これまで行ったことのない道を歩いてみる、見つけた小さな花の名を調べてみる、通りがかった人に声をかけてみる、知らない喫茶店に入ってみる。
そこに新しい発見があり、驚きがあり、知らず知らずのうちに夢中になり、時間を忘れてしまう。楽しんでいる自分がいる。
それが散歩に「なりきる」ということです。
「なりきる」のパラドックス
ただ、ここで注意しなければならないのは、「なりきる」とは、「なりきろう」と努力することではないということです。
それは「あるがまま」になろうとするのは、すでに「あるがまま」ではないとおなじことです。
つまり、「なりきろう」と努力することは、すでにその成果(ネガティブな思いや感情を無くしたい)を得たいという野心があるのであって、これでは「なりきろう」とすればするほど「なりきる」ことができないというパラドックスの罠に陥ることになります。
自然で素直な心の発動
こう見てくると、「なりきる」とは、自分にうそのない、自然で素直な心、つまり自我や欲を捨てたところに実現するもののように思われます。
それはそのまま「あるがまま」とつながってきます。あるがままの心でものごとに当たることが「なりきる」ことになるのです。
こう見てくると、「なりきる」という心構えは、私たちが生きる上での大切なことを教えてくれているような気がします。