《坂口安吾の思想》
” 生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか ” (坂口安吾「堕落論」)
本質を見通すまなざし
最近、森田の著作を読み返していて、ものごとの本質を見通すまなざしが作家坂口安吾にとても似ていることに気づきました。
坂口安吾は、太宰治と並び無頼派と呼ばれた戦後文学の旗手であり、小説「風博士」や「白痴」、評論「堕落論」「日本文化私観」などは今も多くの人たちに高く評価されています。
安吾の堕落論
特に、「堕落論」は、その逆説的な表現で、それまでの倫理観や既成概念の奥にある本質を抉り出し、戦後の混乱期、進むべき道を見失っていた人々に強烈な衝撃を与えました。
安吾は、第二次大戦後の混乱する社会において、お国のためと散った特攻隊員の生き残りが闇屋に堕ち、けなげな心情で男を戦場に送った女たちも、やがて新しい男の面影を胸に抱いて心変わりするという現実を目の当たりにします。
人間だから堕落する
しかし、安吾は、もともと特攻隊の勇士もけなげな未亡人も、戦争が作り出した幻影にすぎない、と言います。
『人間が変わったのではない。変わったのは世相の表面だけである』、これを堕落と言うなら、『人は戦争に負けたから堕落するのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけである』
『日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか』として、偉大でもあり、卑小でもある人間の真実の姿を透徹した目でとらえています。
ここで安吾が言う堕落とは、虚飾や既成概念を捨てて人間のあるがままに生きることであり、人間が本来の生命力のままに生きる、と言うことです。
安吾の本質を衝く言葉
こうした人間の本当の姿を追求せずにはおかない安吾は、これまで当たり前と思われていた倫理観や価値観に対しても、辛辣で本質を衝いた言葉を多く残しています。
『天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。それは彼等にとって天皇制が都合がよかったからである』(続堕落論)
『耐乏、忍苦を美徳の精神だという。乏しきに耐える精神などがなんで美徳であるものか。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩というものが行われてくるのである』(続堕落論)
『日本庭園や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建設された空中楼閣なのである。床の間が如何に自然の素朴さを装うにしても、そのために支払われた注意が、すでに素直でなく、結局、本当の物ではないのである』(日本文化私観)
『京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである』(日本文化私観)。
共通した現実主義
こうした安吾の言葉は、森田療法の創始者森田正馬の考え方にきわめて近いものを感じます。
立場や生きた時代は異なるものの、両者に一貫しているのは従来の常識や当たり前と思われている価値観にとらわれない、人間のあるがままの姿を見つめる徹底した現実主義です。
《森田正馬の思想》
森田の現実主義
森田が生きた19世紀後半~20世紀前半は精神医学界の巨人S.フロイトの活躍した時代でもありました。
フロイトは、神経症の原因は抑圧された無意識にあるとし、無意識を意識化する(気づかせる)ことで治療が可能であるとする精神分析を提唱しました。そこには、心と身体は別のものであるとする心身二元論の考え方がありました。
それに対して森田は、心と身体はそれぞれ交互に影響し合っており、心だけを分離して取り出すことは出来ないとし、症状を直接治療の対象にしない「あるがまま」という心のあり方を提唱しました。
不安という感情は人間が生きるために備わった自然なものであり、それをコントロールすることは出来ないという考えからです。
森田の治療法は、当時の精神医学の常識を根底から覆す治療理論でした。
森田は科学的な思考を学んだ人であり、事実とは何かを厳しく追求する中でこの洞察にいたったのです。
通じ合う森田と安吾の言葉
このように、あくまでも事実を追求する姿勢を通じて、森田の「あるがまま」と、安吾の「堕落」とは根底で通じ合っていると言っていいでしょう。
《森田の本質を衝く言葉》
森田療法は単なる治療法にとどまりません。悩みや苦しみの根本的な原因は、人間に対する認識が間違っていることによるものとしていることでも分かるように、その人の生き方こそが問われているのです。
それゆえ、森田も安吾と同じく人間の本質を衝く多くの言葉を残しています。
『人生は諸行無常であって、常に不安心であるという心に常住していれば、そこにはじめて大きな安心がある』
『勝とうとあせるから負ける。負けるがままに捨て身になれば必ず勝つものです。自分自身そのままに人に対する反抗をやめさえすれば、必ず自分の長所は自ずから発揮されるものです』
『真の勇気は自ら勇気を自覚せず、真の必死は念頭に死の観念のない時に生まれるのである。無念無想とか、必死とか、悟りとかいうものは、自らこれを獲得しようとする時は、それはすでに仮想である』
『執着とは事物の全体を見ないで、その一面のみを見るからである。人生は苦楽が常に相あざなえるものであるのに、ただその苦の一面のみを見るからである』
『どうにも仕方がないと行き詰った時、つまり工夫も方法も尽き果てた時、はじめて道が開けるということであります。それが “弱くなりきる” ということです。そこにはじめて突破、あるいは窮達(やりとげる)が行われるのであります』
『人を頼らず、友を頼らず、親戚を頼らず、親に頼ることができない人は神に頼ることができない人である。従ってまた自己を信じない人である』
安吾につながる
こうした森田の言葉の数々はすべて、私たちの世間的、観念的な既成概念を捨てた人間の生きる上での本質を言い当てており、それはそのまま、安吾の言う『生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか』につながっていると思われます。
【参考】
坂口安吾「堕落論」