《誤解されやすい「あるがまま」》
森田療法を学ぶ人にとって、一番の関門は「あるがまま」という言葉をどう理解するかです。
「あるがまま」は一見シンプルで分かったような錯覚に陥りますが、実は奥が深くしかも誤解されやすい言葉です。
あるがまま
その中身をよく理解しないまま言葉のイメージだけを聞くと、「あるがまま」であるのが望ましい、とも受け取られかねません。
何か悟った禅僧のようなイメージを浮かべる人もいるかもしれません。
ましてや、「あるがまま」が苦しみから抜け出す道だと言われれば、それは悩める者にとって、それこそ希望の星にも見えます。それだけに変に力が入ってしまいます。
しかし、そこに落し穴があります。
求めんとすれば得られず
森田は著書の中で『「あるがまま」になろうとしては,それは “求めんとすれば得られず” で、すでに「あるがまま」ではない。なぜなら「あるがまま」 になろうとするのは、実はこれによって自分の苦痛を回避しようとする野心があるのであって、苦痛は当然苦痛であるという「あるがまま」とはまったく反対であるからである』と述べています。
実は「自分の苦痛を回避しようとする野心」をもって、「あるがまま」になろうとあがいていたのが誰あろう私自身でした。いま思えばまったく方向違いの努力であったことが分かります。
《生かされている私》
観念の世界で生きていた
考えてみれば、私が「とらわれ」に陥ったことも、「あるがまま」を正しく理解できなかったことも、原因は私が頭でっかちで、観念の世界だけで生きていたからのような気がします。体験から得られた智慧、体得した信念に目を向けてこなかったのです。
人間には、できること・できないことがあります。それにもかかわらず、自分で自分の心をコントロールできる、あるいはコントロールしなければいけないと思い込んでいました。そんな初歩的なことさえ分からなかったのです。
《内観療法の体験》
私は数十年前、奈良県郡山市の「内観療法」の門をたたいたことがあります。創始者の吉本伊信氏がまだご存命の時です。一週間ほどですが、6畳の和室の隅に座り、お世話になったこと・して返したこと・迷惑をかけたことを、朝から夕方まで思い出す作業に集中しました。
感謝のこころ
はじめは全く思い出すことが出来ずあせりましたが、日が経つにつれて、忘れていたさまざまなことが闇夜に浮かぶ遠い灯りのように少しずつ浮かんできました。そして、自分が親をはじめ、いかに多くの人の力によって支えられてきたかを心の底から感じることができました。
その時、はじめて心からの「感謝」の念が浮かんできたのです。固い心の殻がはじけた時でした。
私は私だけの力だけで生きているのではない。さまざまな縁のネットワークの中で「生かされている」。
「生かされている」ということは決して抽象的な実体のない言葉ではありません。まさに多くの人や縁で生かされていることを実感したのです。
偶然という時の運もそうです。ネットワークでつながったさまざまな縁によって、「偶然」が生じたと思わざるを得ません。
あるがままとは、そうしたすべてを、そのまま感じ取り、受け容れていく心のあり方ではないかと思ったのです。
【参考】
「神経質の本態と療法」森田正馬(白揚社)
森田正馬全集第5巻(白揚社)