《あるがままとは》
森田療法の人間観の根本はひと言でいえば「自然な生き方」です。
『もともと私たちの身体と精神の活動は自然の現象である。人為によってこれを左右することはできない』という森田の考え方にその基本があります。
森田療法の中心的な思想ともいうべき「あるがまま」という言葉もそこからきています。「あるがまま」はただ単に「自然な」とか、「自然体で」とか、「そのまま」とかいう意味に捉えられがちですが、それとは少し意味が異なります。また、不安や症状を我慢しなさいとか、あきらめなさいといったこととも違います。
価値判断や解釈を加えない
私たちは、日ごろから無意識のうちに、ものごとの意味や価値を観念(思考)によってラベリングしています。
その価値判断や解釈は、何から来るかと言えば、「快・不快」「好き・嫌い」といった感情から生み出されています。そのため、ものごとをあるがまま素直に観ることが出来ません。
偏ったものの見方・考え方は事実とは違うので現実と齟齬をきたし、こころの不安や葛藤などを生む原因になってしまうのです。そのため、そうした価値判断や解釈を加えないでものごとを感じ、受け取りましょうというのが「あるがまま」ということです。
事実を受け入れる
森田療法は不安障害(さまざまな症状の中核に不安がある)を治療の対象としています。そこでは、「あるがまま」をどう説明しているのでしょうか。
森田では、まず不安や症状を排除しようとするとらわれやはからいをやめて「そのままにしておきましょう」と教えています。
なぜなら、「もともと私たちの身体と精神の活動は自然の現象」であり、不安・恐怖という感情も生き物が危険から逃れるために与えられた自然の生存本能です。
そうであってみれば、それは私たちがどうこうできるものではありません。つまり、「事実を認める」あるいは「事実を受け入れる」しか他に方法がないということになります。それが「あるがまま」の態度ということになります。
「あるがまま」より仕方がない
森田は著書の中で『詮じつめれば、あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がないということになる。これを宗教的にいえば帰依とか帰命(きみょう)とか絶対服従の意味になる』と書いています。
事実の前では私たちが頭で作り上げた観念は無力であるということです。それは本当の意味での宗教につながるかもしれませんが、ここではあくまでも「事実だけが真実である」(事実唯真)ということを言っているのです。
死の恐怖と生の欲望
ここいたる背景には、森田の体験に基づく「死の恐怖」と「生の欲望」の思想があります。
誰でも死ぬことは恐ろしい。しかし、誰も死を免れることは出来ません。事実ですからこれに抗うことは出来ません。だから、あるがままに「死の恐怖」を受け入れるしかありません。
つまり、事実をそのまま認めること。これが一つ目の「あるがまま」です。
もう一つのあるがまま
そして、もう一つの「あるがまま」は「生の欲望」を認めることです。
人間には生きたいという欲望があります。欲望があるからこそ生きているのです。いろいろ苦しいことがあってもこれを簡単にあきらめることが出来ません。これも事実であり、あるがままに受け入れるしかありません。これが二つ目の「あるがまま」です。
不安と生きたいは表裏一体
人は誰でも基本的には「向上発展したい、より良い人生を送りたい」という前向きの気持ち(生の欲望)を持っています。そうした気持ちがあるからこそ「不安」が生まれるのです。
「不安」と「生きたい」は同じものであり表裏一体をなしています。ですから、自分の胸の内をじっと見つめてみれば、不安の裏に隠れてはいますが、そこにはよりよく生きたいという炎がまだ燃え続けているということに気づくでしょう。
その気持ちもまたその人にとって真実であり、それを認めることも「あるがまま」のもう一つの姿ということになります。
あるがままの境地とは
あるがままの境地とは決して悟りを開いた禅僧のような境地をいうのではありません。
死も怖い、欲望も諦めきれない、これが事実ならそれに従うしかない。つまり、事実は何かを見つめ、自分ではコントロールできないことはあきらめ、自分でコントロールできることをたんたんとやっていく。それがあるがままということではないかと思うのです。