《自己受容とは》
臨床心理学では、「適応」や「治癒」に関わる重要な概念として「自己受容」があります。
自己を「あるがまま」に観ることと「自己受容」とはどう違うのでしょうか。
治療における重要な概念
「自己受容」とは、一般には、“自己の価値をありのままに受け入れること” とされており、自己理解・自己承認・自己価値・自己信頼などとも関係し、現実に適応した生活を送る上で、また、心の悩みを治療する上で重要な概念とされてきました。
自己の否定的側面も受け容れる
「自己受容」は自己肯定感など肯定的な意味だけでなく、自己の否定的側面とも何とか折り合いをつけていくことであり、意識、無意識を含めた自分という存在そのものを受けとめることと理解されています。
自己受容の大切さを最初に主唱したのは来談者中心療法の創始者カール・ロジャーズで、彼は『自己受容がセラピィの向かう方向であり、結果でもある』と述べその重要性を指摘しています。
《あるがままと自己受容》
もちろん、「あるがまま」と「自己受容」とは同じ意味というわけではありません。自己に対する見方が西欧発祥の精神療法と、東洋思想に基づく森田療法とでは大きく異なるからです。
自己受容における「自己」
「自己受容」とは、「自己」の主観内にあるものを客観的な「対象」へと具体化し、外にあるものとして受け入れるということです。
つまり、自分の心の中にあるものを自分から切り離して見つめ直し、その上でそれを受け入れるということです。そのことで、自己に対する理解、承認、価値、信頼が高まることにつながります。
あるがままにおける「自己」
それに対して、「あるがまま」の背景となる東洋思想では、「自己」と「対象」は対立的なものではなく全体のそれぞれ一部であり、全ては一体で連続的なものとみなしています。
つまり、「自己」は全体である自然(宇宙)の一部であり、自然と「自己」は連続的につながっているということです。
あるがままであるより仕方がない
自然はその人知の及ばない正しい秩序を内包していますから、「あるがまま」に自己を観るとは、その自然の理(ことわり)をそのまま認めることに他なりません。自己のはからいや作為によって変わり得るものではありません。ですから「あるがままであるよりほかに仕方がない」ということになります。
自己は自然の一部
つまり、「自己受容」では、あくまでも今の自分を受け入れる主体は「自己」です。
しかし、「あるがまま」では、「自己」は主体ではありません。
自然という大きな存在の一部にしか過ぎないので、自己を含む自然
(宇宙)そのものをひっくるめて受け入れるということになります。
自分を捨てて得る
老子は「無為自然」を唱えました。宇宙の摂理にしたがって自然のままであることを良しとする考えです。無為の反対は人為です。人為つまりとらわれている自分の考え(自己)を捨てた時、自分の中にあった自然が働き本来の正しい判断が出来るということです。
「道は無為にして、しかも為さざるはなし」(皆が自然に生きれば世の中は自然とうまくいく)というのもそのことを指します。
前回も述べたように、自然という事実の前にはそれに従うしかない。つまり、事実は何かを見つめ、自分ではコントロールできないことはあきらめ、自分でコントロールできることを淡々とやっていく。それが自分を捨てて得るということではないかと思うのです。
「あるがまま」が進めば「自己受容」も進む
このように自己に対する理解の仕方に大きな違いがありますが、今の自分を受け容れるという点においては通ずるものがあります。
「あるがまま」の心的態度が進めば、「自己受容」は当然促進されるわけであり、それは適応に大きく関わるということになります。