《他者からの受容》
自己受容と他者受容
先回、「あるがまま」との関連で「自己受容」について考えました。「自己受容」は自分ひとりだけで成り立つものではありません。自分を受け入れるためには、他者との関係も大きな要素を占めています。
つまり、私たちは他者から受け容れられることによって、自分自身を受け入れることが出来、また他者をも受け入れることが出来るという側面も無視できないということです。
「他者からの受容」を育む自助グループ
私は現在不安障害者の自助グループに参加し活動しています。自助グループとは、一般的には何らかの障害や困難、問題を抱えたひと同士が集まり、お互いに支え合う中から問題の解決や克服を図る活動のことをいいます。
障害や困難、問題を抱えた人たちは、自分の弱みを見せたくない、話しても分かってもらえないと孤立感を深めています。
しかし、自助グループでは同じような問題や悩みを抱えた人たちの集まりであるので、“他人の痛みは自分の痛みと共感してくれる” “自分を一人の人間として受け入れてくれる” “それはおかしいことではないと認めてくれる”、そんな空間を提供してくれる場と言っていいでしょう。
つまり、「他者からの受容」に包まれた環境であるということです。
そうした空間が参加者に安心感や自己効力感を高めてくれ、「自己受容」の増大にも大きな力を発揮しているのです。
自助と互助
このように、自助グループでは「他者から支えられる」とともに、「自分が自分を支える」、「自分が他者を支える」という自助と互助という関係の中で成り立っているのです。
《「他者からの受容」と愛着》
人にとって「他者からの受容」の最初の経験は母親(あるいは養育者)から与えられるものです。
愛着理論を提唱したJ.ボウルビィは、「母親からの無条件の愛情による支えと受容が幼児の基本的信頼に重要な役割を果たしている」としています。
そして、「その発達初期の養育者との関係の中で形成された考え方や感じ方が成人期になってからの他者との関係のあり方に大きな影響を与える」としています。
人が自己を受容できるためには、その前提として母親(養育者)、家族、又は他者によって受容されるという経験が重要であるということです。
そして、一般に自己受容の高い人は他者を受容する傾向も高く、同時に他者からも受容されていると感じる傾向が強いと言われています。
「自分は他者から大切にされている」という思いは、幸福感、安心感、自己効力感などさまざまな心理的問題に関係しているとされています。
《自己受容の二つの側面》
自己受容には二つの側面があります。一つは “自分自身の判断による自己受容” であり、もう一つは “他者から受容されることで達成される自己受容” です。
私が社会人入学した大学院で行った「自助グループにおける自己受容の研究」では、この自己受容の二つの側面に関する興味深いデータが示されました。これは自助グループに参加する前と後で「自己受容度」がどの程度変化したかを調べた際のデータです。
自己のいろいろな領域(生き方・性格・対人・身体容姿・能力)における自己受容度を個別に調べた結果、〈性格〉や〈生き方〉の領域で自己受容度が大幅に増加(それぞれ伸び率56%・48%)したのに対し、〈対人〉領域では自己受容度の伸びが相対的に低い結果(伸び率33%)が出ました。
確信を持てない「他者から受容されている」感覚
〈性格〉 と〈生き方〉 の領域で自己受容度の伸びが大きかったのは、この2つの領域が 他者よりも “自分自身の判断による自己受容” の側面が大きいためであると考えられます。それに対して〈対人〉領域の伸びが低かった理由は、自己受容の二つの側面のうち、“他者から受容されることで達成される自己受容” の部分がとても大きいという点にあります。
「他者から受容されている」という感覚は自分自身ではなかなか確信を持てない上慎重な性格傾向もあり、相対的に低い伸び率になったと思われます。しかし、逆に言えば、このことは「他者から受容されている」ことが「自己受容」にいかに大きな影響を及ぼしているかの証とも言えます。
それでも〈対人〉領域で33%の伸び率が示されたことは、自助グループにおける「他者からの受容」という機能が大いに働いた結果とも思われます。それは別途実施した聞き取り調査でも明らかで、「こういうグループがあることですごく救われた」「自分の居場所を見つけた」「こんな自分でもいいんだなと思えた」「受け止めてもらえた」などの言葉で「他者から受容」された喜びを言葉にしています。
《「大いなる他者」による受容》
「他者からの受容」には人間以外の「他者からの受容」というケースもあります。
その場合の他者は私たちを取り巻く自然や宇宙、神仏などです。その大いなるものよって受容されている感覚もまた「自己受容」を導く大きな要素です。むしろ、私たちは古来自然への崇拝、宗教への信仰、帰依を通して救い(自己受容)を模索してきたと言えます。自然は私たちにたくさんの恵みをもたらし、いのちを支え、今生きていることの感謝の念をもたらしてくれます。また宗教では、例えば親鸞の「他力本願」というのも阿弥陀仏という他力に受容されるという意味です。
親鸞の思想に影響を受けた吉本伊信氏が創始した「内観療法」は、自分はすべて親や配偶者、友人など「他力に支えられていた」と気づくことによって自己を受け入れる方法で、もともとは宗教的な自己内省法(見調べ)から生まれたものです。
承認を必要としない
このように、私たちは古くから大いなるものに抱かれ受容されることで救い(自己受容)を得てきたのです。この受容は相手への「承認」を必要としません。つまり受け入れに当たっての条件はなく無条件に受け入れてくれるということです。そこに絶対的な安心があるのです。
このことを考えると、むしろ、こちらが本来の「他者からの受容」であり「自己受容」のあり方なのかもしれません。いずれにしろ人間はこのように「他者からの受容」を必要とし、それによって救われて(自己受容)きたのです。