《不安・恐れに直面したら?》
もし、いまあなたにとって恐れている場面が自分を待ち受けているとしたらどうしますか?
例えば、恐れていることや場面に直面しなければならない時、苦手な人と会わなければいけない時、未知のものに立ち向かう時、過去のつらい経験を思い出す時・・・
不安とは
不安とは、私たちを脅かすような出来事や危険が迫ってくると漠然と感じ、自分ではそれをコントロールできないと感じる時生ずるものです。そして、あくまでも主観的なものです。
それに対して、客観的な脅威が存在する時は恐怖と表現します。
《はからいと回避行動》
こんな場合私たちは、自分なりの言い訳を作って恐れている事態に直面することを避けたり、そこから目をそむけたり、先延ばしにしたり、問題をすり替えたり、さまざまな行動をとるのではないでしょうか。
それを回避行動・逃避行動・安全確保行動と言います。
「はからい」とも言います。恐れていることに正面から向き合わないでそれを避けようとする行動です。
一時的な安心を得たい
つまり、私たちは不安や恐怖を感じた時、「そこから逃げたい」「一時的な安心を得たい」と無意識にこうした行動をとります。こうすることによって何とか心の平安を保とうとしているのです。
いわば、本能的な安全確保行動とってもいいでしょう。
一般的には、こうした行動は特に異常というわけではありません。誰にでもあることであり、時間が経てば知らないうちに忘れてしまいます。いわば心の安全装置とでもいうべきものです。
はからいはその場しのぎ
しかし、「はからい」はあくまでもその場しのぎのやりくりなので本当の安心は生まれませんし、ものごとの解決にもなりません。特に不安の強い人にとっては「はからい」はその葛藤を増大させてしまいます。
はからいにエネルギーを浪費
不安障害に悩む人たちが、症状を維持・悪化させてしまう大きな原因がこの回避・逃避行動と言われています。
そのため、その不安・恐怖を回避・逃避するための「はからい」に日々大きなエネルギーを費やしており、一日中心の休まるヒマがありません。
《とらわれとはからいの関係》
二つのとらわれ
不安障害は「とらわれ」から生じるといわれています。
そもそも不安障害の人が感じている不安は実際に存在する脅威というというものではありません。自分が脅威と思い込んでいる、つまり自分の心によって引き起こされた主観的なものです。しかし、本人は現実の脅威だと「とらわれ」ているのです。
その上、不安や恐怖は排除すべきもの、排除できるという意識にも「とらわれ」ています。
とらわれとはからいの悪循環
そうすると、どうしてもそこから逃れたい一心でさまざまな「はからい」が生じてしまいます。
それは、苦手な場面からの回避や逃避を生み、「とらわれ」と「はからい」の悪循環が始まります。
負の強化
行動療法では、回避や逃避・安全確保・強迫といった行動(はからい)は、「負の強化」につながると言います。「負の強化」とは、「取り除かれることで行動が増える」ことを言います。
例えば、頭痛がする時に薬を飲んで治まった(取り除かれる=負)経験があると、次に頭痛がした時にすぐに薬を飲みたくなります。そして、それが高じるとついつい薬に依存してしまう(行動が増える=強化)という習慣が出来てしまいます。
今回の例で言えば、回避や逃避など嫌なことを避ける(取り除かれる=負)行動が度重なると、症状がどんどん強くなる(行動が増える=強化)ということです。つまり、「はからい」の行動が不安を育て、維持させ・増大させる結果を生み出しているということです。
《本当のことを知る機会を遠ざける》
はからいや回避行動が問題であるというもう一つの理由は、「不安や恐れ」の本当の姿を知る機会から遠ざけてしまうということです。
先ほど、不安は実際に存在する脅威ではない。自分が脅威と思い込んでいる、つまり自分の心によって引き起こされた主観的なものであると述べました。
つまり、はからいや回避行動をすることによって、脅威が現実には存在するものではなく、自分が作り上げたイメージであること、そして、その脅威が自分が考えていたものとは違うということを知る機会をますます遠ざけることになるということです。
森田は「恐怖突入」を説明する中でこう述べています。『自分が思い込んでいる “恐れている事態” が実際には想像とは異なるということを、理屈ではなく身体で体験させてくれるのが “恐怖突入” である』。
《とらわれから抜け出すには》
自然に服従し、境遇に従順であれ
それでは、「とらわれ」から抜け出すにはどうしたらいいのでしょう。
森田はこう書いています。『自然に服従し、境遇に従順であることであります。私どものいろいろな気分は起こる原因があって起こるものですから、それをどうすることもできません。それが心の自然であってみれば、抵抗しないで受け入れてゆく他はありません』。
あるがままに事実を受け入れる
森田の言う「自然に服従し、境遇に従順」であることは決して「状況に逆らうな」「長いものにはまかれろ」という消極的な生き方ではありません。自然というのは「事実」のことであり、境遇は「現実」のことです。事実は認めざるを得ないし、現実には適応していくしかありません。適応という中にはもちろん、より良い方向に改革することも含まれています。いずれにしろ、ものごとを観念的に理解しようとせず、まず「あるがまま」に事実を受け入れることがとらわれから抜け出せる道だということです。