《とらわれとは》
森田療法では不安障害の原因を「とらわれ」という特有の心理的メカニズムが働くために起きると考えます。
「とらわれ」とは、ひとつの考えにかんじがらめになってその考えから離れられなくなるという意味です。固く硬直して柔らかさのない窮屈なイメージが浮かびます。
「とらわれ」には、生き方へのとらわれ(よりよく生きたい)、身体へのとらわれ(いつも健康でいたい)、不安や恐怖へのとらわれ(いつも心配なく安心でいたい)、観念へのとらわれ(自分はこうあるべきだ)などさまざまな形で存在しています。
とらわれは感情によって生み出される
人間のこころは一般に知・情・意、つまり思考・感情・意思の3つが複雑に絡み合って成り立っています。
しかし、思考(観念)や意思といってもそれは決して事実に基づいた正しい理解や判断をしているわけではありません。
思考や意思には必ず「こうありたい」「こうしたい」といった価値判断や意味づけ(解釈)がされています。
そして、その価値判断や意味づけは感情によって生み出されるのです。
不快を避け快を求める
感情の基本的な要素を成すのは快と不快と言われています。そう
すると、私たちはどうしても不快を避け快を求めます。個人的には好き、嫌いということになります。
その感情は個人的な価値判断や解釈を生み出します。そして、それは快(好き)を求め、不快(嫌い)を避ける方にどんどん肥大化します。それがとらわれを生みます。
そして、それが思考や意思に影響を与え正しい価値判断を誤らせます。人前では堂々としていなければならないという価値判断が強いと、現実の情けない自分を許せません。それが観念と現実の葛藤であり、私を苦しめたのもこうしたとらわれでした。
人間の一切の苦しみは執着から
とらわれは仏教では「執着」と言います。人間の一切の悩み苦しみの原因は執着であると教えています。執着は一つにことに心をとらえられてそこから離れられないことを言います。
中でも我執というのが厄介です。小さな自分だけの考えにとらわれてそこから離れられないことです。自己の内部に不変の実体、本質が存在すると思う心です。
執着は人から自由を奪い智慧を鈍らせます。だから苦しくなるのです。
自由な心とは
反対に自由な心とは、「無所住心」つまり、注意が一点だけに集中するのではなく、森羅万象に応じて全方位にあまねくいき渡るような心構えを言います。
そのことによって人は初めて、ことに触れ物に接して臨機応変、適切な行動で対応することが出来ると教えています。
仏教の教え
そのために、仏教では一切皆苦(人生は思い通りにはならない)、諸行無常(不変なもの、絶対的なものは存在しない)、諸法無我(全てのものは因果と縁によって成り立っている。他と関係なしに存在するものなどない。私もその中で生かされている)などの教えを通して、世の中は自分の思う通りにならない、つまり、執着することは意味がないということをさまざまな考え方を通して教えているのです。