こころのプラネット

間違った生き方や考え方が自分を苦しめていた・・・ 不安障害で苦しんだ当事者が出会ったこころの真実。森田療法を中心に、マインドフルネス・仏教心理学などを通して 苦しみの本質に気づき、とらわれのないこころのあり方さぐります。

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あるがまま再考

投稿日:2021年3月1日 更新日:

あるがまま

新型コロナ禍の中、これからの時代をどう生きていくべきか、新聞やネットなどでさまざまな議論を目にします。
先行きが分からない時代です。何か私たちの指針となるような思想が求められているのかもしれません。

そんな時、ひとつの方向を示してくれるのが、「あるがまま」という生き方ではないかと思います。

「あるがまま」は、辞書などには「そのまま、その状態のまま、自然のまま、本来の姿」などと説明されていますがこれだけでは、なかなか本当の姿は伝わってきません。
シンプルだけども、とても深い意味があるようで、だけどもう一つ分からない、それが「あるがまま」という言葉です。

「あるがまま」本来の意味

もともと、「あるがまま」という言葉は東洋思想から生まれた概念です。

「ある」は存在のことであり、「まま」は状態を表します。つまり、「あるがまま」を理解するということは、「存在」ということをどう理解するか、ということになります。

「存在」の意味についてはいろいろ議論があって、とてもここで語りつくせるものではありません。私の能力にも余ります。しかし、ごくごく簡単に言ってしまえば、西洋的な考え方で「存在」とは、「客観的にものごとをとらえる」ことによって得られるものということになると思われます。

「客観的」とは、私が見たり触ったり認識したりできる対象を、主観をまじえずそのままとらえることです。いわゆる科学的と言われる考え方で、それが事実であり、真実であるとする立場です。しかし、それは本当に「存在」の真実を伝えているのでしょうか。生きた人間社会、精妙な自然の働き、生命体としての宇宙、それらの「存在」を十分にとらえているのかという疑問が浮かびます。

それに対して、仏教を含む東洋思想では、「存在」とは私たちが生きている、体験している世界を丸ごと含んだ概念です。喜びや悲しみに満ち、不安と希望をはらんだ、さまざまな出来事や現象からなる世界(存在)です。それはすでに私たちの目の前に投げ出されており(存在)、それをそのまま受け止めるということ、それが「あるがまま」です。

「あるがまま」であるためにはどうしたらいいか。すぐには答えが出せる問題ではありません。しかし、「あるがまま」を通して、自分を含む世界をどのようにとらえ、どのようにつきあっていけばいいのか、その一端だけでも触れることは出来ないでしょうか。

森田療法のキーワード「あるがまま」

不安は自然な感情

ご存じのように、森田療法の中心的概念は「あるがまま」です。
そもそも、森田はなぜこの「あるがまま」を治療思想の中心に置いたのでしょう。

森田療法が主な治療の対象としているのは、神経症やうつ病など「不安」を中核とする症状に悩む人たちです。
しかし、森田ではそうした症状を引き起こすとされている「不安」は病理的なものではなく,自然な感情だととらえています。

例えば、知らないことを初めて経験する時は誰でも不安になります。ですから、それを誰も病気だとは思いません。
そもそも不安という感情は悪いことばかりではありません。人を努力に導くのもそうした感情があるからこそです。不安に限らず、人間の感情は言わば人間がよりよく生きていくために備わった不可欠な心の機能であり、自然なものであるということです。

誤った考え方が「とらわれ」を生む 

それではなぜ、自然な感情である不安が神経症を生み出すのでしょうか。

森田はそれを「とらわれ」によるものと理解しました。
つまり、「不安そのもの」が問題なのではなく、「不安はあってはいけない」という、不安に対する誤った考え方や不自然な態度(とらわれ)が神経症につながると考えたのです。

森田は自らも神経症に悩み、その苦しみの経験と治療体験の中で、いかに私たちの心が「とらわれ」やすいかというということを痛感したものと思われます。

例えば、苦手な人がいるとします。出来たらその人に会いたくない。しかし、仕事とあれば仕方がありません。とは言っても、ついつい思い出したくもないその人に注意が向かってしまいます。忘れようと思えば思うほど感覚は鋭敏になって、その人の顔が思い浮かび他のことが手につかない状態に陥ってしまいます。つまり、それが「とらわれ」です。

とらわれやすい存在

人間は「とらわれ」やすい存在です。私たちはあらゆるものに「とらわれ」ます。その「とらわれ」の根源はよりよく生きたいという「生の欲望」があるからです。
もっと良い人生を送りたい(生き方へのとらわれ)、いつも元気で健康でいたい(身体へのとらわれ)、いつも心配なく安心でいたい(不安や恐怖へのとらわれ)、ものごとはこうあるべきだ(観念へのとらわれ)、子どもにいい学校へ行ってほしい(評価へのとらわれ)などさまざまな形で存在しています。

欲求・欲望は生きるための大きなエネルギーであるとともに、そのつき合い方を間違えると「とらわれ」となり、私たちを苦しめる厄介な存在にもなるのです。

あるがまま

不安に対する「あるがまま」

その「とらわれ」と対極にあるのが「あるがまま」という心のあり方です。

先ほども言いましたが、森田では「不安そのもの」は自然な感情であり、排除すべきものとはみなしません。むしろ、「不安はあってはいけない」という考え方や不自然な態度(とらわれ)そのものが問題であるとしています。

ですから、「不安」を感じたら否定したり、除去しようとしたりせず、また、解釈やはからいをやめ、そのまま受け容れることを勧めます。

森田はそのことについて『嫌なことは気になる。不安は苦しい。雪は白い。夜は暗い。何ともしかたがない。それが事実であるから,どうとも別に考え方を工夫する余地はない』と述べています。

つまり、それが事実であり、事実は変えられないものだから、それをそのまま(あるがまま)受け容れるしかないということです。事実の前では私たちが頭で作り上げた観念は無力であるということです。

あるがままより仕方がない

森田はあるがままについて、『詮じつめれば、あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がないということになる。これを宗教的にいえば帰依とか帰命(きみょう)とか絶対服従の意味になる』と言っています。

つまり、「あるがままよりほかに仕方がない」と言うのは、事実は変えられないものであるから、頭でいろいろ考えたって仕方がない。だから、抵抗するのをやめ、観念的なはからいを一切「断念」し、すべてを受け容れるしかないと言うのです。

宗教では信心というのは自分よりも大いなる存在を信じることを言います。ここで言う大いなるものは「事実」ということです。森田では「事実唯真」という言葉を、あるがままと同じように重要な言葉としています。それは、「事実」を頭で「理解」することではありません。

この「事実」という大いなるものに身も心も預ける、事実の前にひれ伏すということ、それが「帰依とか帰命とか絶対服従」という意味です。

自然な欲求に対する「あるがまま」

そして、「あるがまま」にはもう一つの側面があります。本来人間に備わった自然な欲求に対する態度です。

ある時、森田は人から、人間が苦痛を避けたいという心は「あるがまま」ではないか、という質問を受けました。
それに対して、森田は『苦痛を避けたいことはもちろんで、誰も好んで苦痛を受けるものはいない。しかし、大きな目的を達しようとするときには大きな苦痛が予想される。その苦痛をあえてしても、そこから抜け出したいという心があるのなら、それが「あるがまま」の心である』と。

つまり、苦痛を避けたいという欲求も「あるがまま」であるが、苦痛をあえてしても悩み・苦痛から抜け出したい(よりよく生きたい)という思いも「あるがまま」であるということです。

そのためにはどうしたらいいか。森田は『はからい、とらわれていけばいいのである。とらわれればとらわれつくして尽きる』とし、こうした努力の経験を積み重ねていくうちに、いつしか「あるがまま」の態度が身についてくるとしています。

つまり、それは本来人間に備わった「よりよく生きたい」という自然な欲求に対する態度です。それを「あるがまま」に認めましょうということです。

これまでは、苦しいから、恐いから、出来るわけがないから、などと自分の本当の欲求に目をふさいできました。しかし、それをそのまま認めてあげるということです。それがもう一つの「あるがまま」です。

日常生活に目を向ける

具体的に言えば、現実への行動を促すということです。これまでもっぱら内的世界と向き合う生活を続けてきたものを、もう一度現実の日常生活に向けることです。

そのためには、気分と行動を分け、目の前のやれることからやってみることを促します。
やれば小さな達成感があり、今度はもっと工夫したくなります。行動にはそうした弾みがあります。

また、場合によっては「恐怖突入」ということもあるでしょう。苦痛をあえてしても、そこから抜け出したいのなら、それがその人の「あるがまま」だからです。

そうした日々の行動の積み重ねが成果を生み、一方で負の感情ばかりに当たっていた焦点が行動に移っていきます。こうしたことによって、「とらわれ」から離れ、本来の「あるがまま」の欲求がよみがえってきます。

誤解されやすい「あるがまま」

「あるがまま」は奥が深いとともに、誤解されやすい言葉です。

その中身をよく理解しないまま言葉のイメージだけを聞くと、「あるがまま」であるのが望ましい、とも受け取られかねません。ましてや、「あるがまま」が苦しみから抜け出す道だと言われれば、それは悩める者にとって、それこそ希望の星にも見えます。しかし、そこに落し穴があります。

森田は著書の中で『「あるがまま」になろうとしては,それは“求めんとすれば得られず”で、すでに「あるがまま」ではない。なぜなら「あるがまま」 になろうとするのは、実はこれによって、自分の苦痛を回避しようとする野心があるのであって、苦痛は当然苦痛であるという「あるがまま」とはまったく反対であるからである』と述べています。

実は「自分の苦痛を回避しようとする野心」をもって、「あるがまま」になろうとあがいていたのが誰あろう私自身でした。いま思えばまったく方向違いの努力であったことが分かります。

生かされている私

考えてみれば、このように、「あるがまま」を理解できなかったことも、「とらわれ」に陥ったことも、原因は私が頭でっかちで、観念の世界だけで生きていたからのような気がします。

人間には、できること・できないことがあります。それにもかかわらず、自分で自分の心をコントロールできる、あるいはコントロールしなければいけないと思い込んでいました。そんな初歩的なことさえ分からなかったのです。

私は私だけの力だけで生きているのではない。さまざまな縁のネットワークの中で「生かされている」のだということに思いをいたすことさえなかったような気がします。いまここにあることの奇跡と幸せ。それに感謝することも、それがさまざまな縁で支えられていたことも気づかないまま過ごしてきました。

私は数十年前、奈良県郡山市の「内観療法」の門をたたいたことがあります。

内観療法とは、自分の身近な人に対しての今までの関わりを思い出すことによって、自分の自己中心性に気づき、周囲の人々への感謝や理解が深まるなどの効果をもたらす日本で生まれた独自の心理療法です。

創始者の吉本伊信氏がまだ健在でした。一週間ほどですが、6畳の和室の隅に座り、お世話になったこと・して返したこと・迷惑をかけたことを、朝から夕方まで思い出す作業に集中しました。
はじめは全く思い出すことが出来ずあせりましたが、日が経つにつれて忘れていたさまざまなことがありありと思いだされるようになりました。

そして、自分がいかに多くの人の力によって支えられてきたかを心の底から感じることができました。そして、はじめて心からの「感謝」の念が湧いてきたのです。固い心の殻がはじけた時でした。

「生かされている」ということは決して抽象的な実体のない言葉ではありません。まさに多くの人や縁で生かされているのです。偶然という時の運もそうです。それを感じる柔らかな心が持てるかどうかです。そして、そのことが「あるがまま」につながってくるように思えてなりません。

【参考文献】
「神経質の本態と療法」森田正馬(白揚社)
森田正馬全集第5巻(白揚社)
『森田療法における「あるがまま」とは』久保田幹子(日本心理学会「心理学ワールド」)

 

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大学卒業後、放送局にて制作・報道などに従事。その後映像会社設立。
思春期より不安障害に悩む。自助グループで活動するかたわら心理学を学び、臨床心理士・公認心理師の資格取得。

名古屋市在住。2015年より長野県安曇野市で300坪の畑を借り都会と田舎の二拠点生活を始める。家族は妻・子ども3人・母。趣味は野菜づくり・読書・世界辺境旅行など。

 

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