《私にとっての「生きる意味」》
「人は人生の意味は何かと問う前に、むしろ私たちは人生から意味を問われている」
このフランクルの言葉は、退職後の第二の人生をどう生きたらいいのか思い悩んでいた私に、とても大きなヒントを与えてくれました。
その言葉によって、その時思い浮かんだのが自分が苦しんだ不安障害という運命です。このままでは私は苦しんだという経験だけで終わってしまうのではないか、そう思いました。その時、「その苦しみの体験の中からあなたに出来ることがあるのではないか」という声が聞こえたのです。つまり、私は人生からやるべきことを問いかけられたのです。
生きる意味を見出す
そこで、私は自分が経験の中で感じ、考えたことはどんな意味があるのか学ぶとともに、それをブログとして発信することを思いつきました。同じように悩み苦しんでいる人に伝えることで少しはお役に立てるのではないかと思ったのです。いわゆる「当事者研究」です。
自分の苦しさは自分が一番分かります。悩める当事者みずからが抱える生きづらさ・感覚・感情・人間関係・葛藤・思いなどを、単なる悩みとしてではなく、よりよく生きていくための研究テーマとしてとらえ、それを前向きな生き方に創造していこうと考えたのです。
あなたを必要としている ”何かがある・誰かがいる”
多分、これまで通りのやり方で自分の「生きがい」探しをしていても、私はこのことには気づけなかったかもしれません。自分の置かれた立場、与えられた運命を虚心に眺めた時、大げさに言えばそれが自分にとっての使命かもしれないとはじめて気づいたのです。
「生きがい」を探して見つからずどうしていいか分からない人にとっても、与えられた運命の中で自分が「求められていること」が必ずあるはずです。つまり、この世のどこかに、必ず「あなたのことを本当に必要としている “何か” があり、 ”誰か“ がいる」、そのことをフランクルは伝えているのです。
アドラーの人生の意味
このフランクルの考え方は、岸見一郎氏の著書「嫌われる勇気」で日本でも知られるようになったA.アドラーの考えと共通するものがあります。
アドラーは「自分を超えた “何か” のために生きる時に真の幸福は訪れるのだ」と言います。“私は誰かの役に立っている” という貢献感が人を幸せな気持ちにし、「生きる意味」をもたらすと主張しました。
これは、これまで紹介してきたフランクルと共通した考え方です。
もともとフランクルはアドラーに師事していたこともあり、「人生の意味」についての関心は共通のものがあったのです。
《べてるの家の「生きる意味」》
「生きる意味」を考える上で、深く考えさせてくれるもうひとつの例があります。精神障害などを抱えた人たちの集まり「べてるの家」(北海道浦河町)という自助グループです。
そこでは、心の病に苦しむ人たちが、昆布を売るなどして自立し、その日々の試行錯誤の暮らしから紡ぎだした豊かな「ことば」をもって生きる意味を発見しています。
運命を受容することによって「生きる意味」が見えてくる
その一つに、「降りていく生き方」ということばがあります。私たちは「進歩しなければいけない」「上昇しなければいけない」という強迫観念にがんじがらめに縛られています。そのとらわれから抜け出せないから苦しいのです。それなら自分から底におりてしまえばいい。文字通り地に足がついた状態です。そこには安心があります。
そこから後は落ちついて考えればいい。そのまま、そこで何かを見つけるか、一段ずつ昇るか。つまり、運命を受容することによって「生きる意味」が見えてきます。
そうした 生き方を手さぐりで模索しているのが、「べてるの家」の人たちです。そこから見えてくるのは、どんな状況にあっても、「生きる意味」を見出すことができるということです。
このことは、私たちが生きる上でとても力強いメッセージになるように思われます。