「諦める」の本当の意味
先回、「こころの断捨離」の中で、「諦(あきら)める」というお話をしました。
「諦める」とはふつうネガティブな意味に使われていて、悔いや心残りはあるが仕方なく放棄するという意味で使われがちです。
そこには、諦めた本人はこれまでのとらわれから自由になっていない状況があるわけです。
断念する
しかし、本来の意味は、ものごとの真実が明らかになり、“迷いが無くなった” 状態のことを言います。それとともに「諦める」には “片をつける” “断念する” という意味もあります。
つまり、真実(事実)が明らかになったのですから、それに対して私たちの力は及ばないということです。ですから、「断念する」しかないことになります。
森田療法の諦める
森田療法では、はっきり「諦(あきら)める」という表現はしていませんが、それと同じ意味のことが随所に出てきます。
あるがままよりほかに仕方がない
森田はあるがままについて、『詮じつめれば、あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がないということになる。これを宗教的にいえば帰依とか帰命(きみょう)とか絶対服従の意味になる』と書いています。
ここで、“あるがままよりほかに仕方がない” というのは、真実(事実)の前では私たちが頭で作り上げた観念は無力である。だから、これまでのやり方(自分なりの評価や価値判断など)は断念せざるを得ない、あるがままより仕方が
ない、ということになります。
『これを宗教的にいえば帰依とか帰命とか絶対服従の意味になる』とはまさに理屈を超えて事実の前にひれ伏すということです。
窮して通ずる
また、森田はこうも言っています。
『(人は)行き詰った時、つまり工夫も方法も尽き果てた時、はじめて道が開ける、ということであります。それが ”弱くなりきる” ということです。この時、やらなければならないことは仕方なしにそれを実行するのです。それが “突破する” ということであり、“窮して通ずる” ということであります』。
“工夫も方法も尽き果てた時” というのは、これまでのやり方をすべて断念したところに、道が開けるということを意味しています。
人為を捨てて道を拓く
言い換えれば 人為を捨てた時、自ずから道が拓けてくるということです。
あれこれ考えたり、コントロールすることを「諦めれば」、自然の摂理が働いて、本来あるべきところにおさまるということです。
コントロールを諦める
不安はコントロールできない時に生じる
自分や自分を取り巻く環境を私たちはすべて自分の思い通りにコントロールできるわけではありません。
私たちは自分で「コントロールできない」ことを「コントロールできる」と勘違いし悩みを深めています。
そもそも不安という感情は、自分ではそれをコントロールできないと感じる時生ずるものだからです。
結果はコントロールできない
それでは、自分がコントロール「できること」は何でしょうか。
「できること」は2つです。それは自分自身の「考え方」と「行動」です。
悩みの原因が自分にあれば、現実に適応して自分の「考え方」を変えることは「できる」。また、環境に原因があれば、そこに働きかけるための「行動」をとることは「できる」。
しかし、その結果を自分の思い通りにコントロールすることはできません。
できないことは断念する
「できること」は行い、「できないこと」は諦める
結局、私たちは、自分がコントロール「できること」は行い、「できないこと」は「諦める」という単純な結論に行きつくしかないのです。
分別を放棄する
何度も言うようですが、この際の「諦める」は、断念する、すっぱりと縁を切る、自らの努力・意志・分別を放棄して真理に任せる、そうした意味です。それはそのまま「断捨離」ということとつながっています。そうすることによってはじめて次への新しい展開が開けるのです。