純な心
人間本来の自然な心
先回、森田療法のキーワードともいうべき「あるがまま」についてお話しました。今回はそれによく似た意味で、森田がよく使う「純な心」をとり上げたいと思います。
「あるがまま」というのはどちらかというと、私と私を取り巻く世界のありよう、つまり世界観を含んだ心のあり方を表している概念ですが、「純な心」はあくまでも人間本来の心のありようを表しています。
うそのない心
森田によれば『(純な心は)われわれ本然の感情であって、この感情の厳然たる事実をいたずらに否定したり、弥縫したり(取りつくろったり)しないことである』と説明しています。
その上で、「純な心」は人情から出発するとし、決して良い心、立派な心、純粋な心、ポジティブな心ばかりを言っているわけではないことを強調しています。自分にうそのない、取り繕おうとしていない、今自分が持ち合わせている自然で素直な心のことを言っているのです。
あり合わせの心
森田療法に禅の思想を取り入れた治療で知られる京都・三聖病院(平成26年閉院)の元・院長の宇佐晋一は、「純な心」について、『いわば出来合いの心、あり合わせの心』と言い、『それは考えられ、作られ、用意されたものではなく、ひょいと今ある心』と言っています。また、「心に準備なし」とも言っています。つまり、「ちゃんとしなければ」とか「自信が出来てから」ではなく、ハラハラドキドキのままでいいということです。
心は万境に随って転ず
森田はこのことを、『普通の教訓では、腹は立てないようにするとか、立った腹はこれを抑えて堪忍するようにするとかいうけれど、私のやり方は簡単である。一口に言えば癪にさわるままにハラハラ、ジリジと考えればよい』と述べています。
なぜなら、人間はある考えが起こると、必ずその反対の心が起こって自分の行いを調節していくものです。ですから、時間が経てば“心は万境に随って転ず ”(心はその時の状況に応じて適切に変わっていく)のことわざ通り、怒りの感情はおさまり、相手の事情も理解できるようになり、自分の行いが正されていくというのです。
森田はこのことを次にように言っています。
『そのままの心(純な心)から出発した時には、そこに必ず軽便、迅速、有効にしたいという工夫が起こる(略)これらはみな、この純な心から発展してはじめてできることである。けれどもそれと反対に理想主義の人は、われわれは努力し、忍耐強くなければならないとか、面倒とか思ってはならないと考えるために、精神はいたずらにその感情(純な心)を否定しようとする不可能な努力に費やされて、自己を切り開いていくという方面には少しも発展しないのである』
また、『過って皿を落として割ってしまった時に、思わずそれを取り上げて継ぎ合わせてみることがある。これは、惜しいことをしたという純な心である』とし、これに反して『いろいろの言い訳をした上で「どうかお許し下さい」と言えばこれは自己中心で、品物の惜しいことは別で、自分が許してもらえさえすればよいということになる』とその違いを説明しています。
そして、「純な心」そのままである時には、その後同じように壊れやすいものを取り扱う機会がある時には、注意して丁寧に扱うようになる。しかし、持ち主にどう言い訳をしようとか、高価な皿ではないかと考える時には「純な心」とは言えず、二度とそうしたものに手を出さないと臆病になるか、失敗した時のことばかり考えて、また同じような失敗を繰り返しかねない、とも述べ「純な心」の意義を説いています。
自己修正力が働く
分かりやすく言えば、「純な心」とは言わば幼児のような心です。幼児は自分の欲求のおもむくままにいろいろわがまま(親から見たらですが)も言いますが、そこには何の下心もなく、はからいもありません。ですから、時間が経てばケロリとして、また新しいことに興味を示します。実に軽やかで自由です。
もちろん、私たちは幼児にはなれませんが、「純な心」から出発した時は、ものごとや人間関係において、健全な自己修正力や自己治癒力、洞察力が働きやすくなり、自然のことわりから大きく逸脱することがないということは大いに考えられることではないでしょうか。
初一念
禅に「初一念」という言葉があります。観念が入り込む前の直感的な世界を言います。森田の言う「純な心」と同じと言っていいでしょう。
森田は、『われわれの心は少し注意して深く観察すると、自然の本能は驚くべき微妙さをもって周囲に適応し反応している。しかし、それは一般には気がつかない。求道の人はこの微妙な心をとらえ、「この心境だ」と気がつくことがある。これを禅の方では「初一念」と名づけている』とし、この「初一念」そのままが悟りであるとしています。
「初一念」とは物事に接したとき、最初に湧き上がってくる思いのことです。しかし、私たちはその後すぐにさまざまな理屈や思いが浮かんできて、そちらの方に気を取られ、最初の一念はどこかにいってしまいます。
ですから、人間本来の素直な思いである「初一念」を大事であるということです。
それがその人の「純な心」であるということになります。
「感じ」から出発せよ
感じ
また、森田は「感じから出発せよ」とも言っています。この「感じ」というのも、「純な心」や「初一念」と同じような意味で使われています。
森田は『時間が経てば腹が減り、ご馳走を見れば食べたくなる。これが「感じ」である』と言い、お腹をこわしているからとか、人前で行儀が悪くすると笑われるとか考えるのが「理知」であり、この「感じ」と「理知」との調節によって人はその行いが正され成長していくと述べています。
感じを高める
また、『修養の第一の出発点は、ものごとの「感じ」を高めていくことである。われわれは見るもの・聞くもの何かにつけて、ちょっと心をとめていれば何かの「感じ」が起こる。これにちょっと手を出しさえすれば、そこに「感じ」が高まり、疑問や工夫が起こって興味がわく』と言い、これを押し進めていくことによって人は成長していくとしています。
とらわれの強い人はどうしても、気軽に手を出すということが出来ません。きちんと心の用意やものごとの準備が出来ていないと不安です。また、「気をつけなければ」とか、「我慢しなければ」とか、観念で自分の心の動きを制御しようとしてしまいます。そうすると、ものに対して起こる自然な感じは閉じてしまって、心の発展進歩はなくなってしまうのです。
そして、この「感じを高める」ということが、人に行動を起こさせる原動力となるのです。
無為自然
老子や荘子の思想を表す言葉に「無為自然」があります。
宇宙の摂理にしたがって、自然のままであることです。
人為、つまりとらわれている自分の考えを入れないで、自然のままに任せた時、自分の中にあった自然が働き本来の正しい判断が出来るということです。
これも「純な心」に通ずるものでしょう。
呪縛から解き放たれた心
これまで述べてきたように、「あるがまま」も「純な心」も「初一念」も「感じ」も「無為自然」も、共通して言われていることは、理屈や知識や道理など、あらかじめ考えられ、作られ、用意されたものでものごとに当たろうとするとうまくいかないということです。
そうではなくて、人間がもともと持っている自然な感情、感覚、本能が大事であるということです。自分に嘘のない、取り繕おうとしていない、無防備で、自在で、素直で、おおらかで、「我」という呪縛から解き放たれた心で、人に対しものごとに対する時、自然と調和した世界が現れてくるということなのでしょうか。そのカギは私たち自身の中にあるということです。
【参考】
森田正馬全集第5巻(白揚社)
「神経質の本態と療法」森田正馬(白揚社)
「あるがままの世界」宇佐晋一・木下勇作(秀和システム)