足もとの幸せ
先回は、「幸せは求めれば求めるほど遠ざかる」という幸せのパラドックスについてお話をしました。
幸せのパラドックスの問題は、幸せは「いつか・どこかに」あると思い込んでいることにありました。大切なことを忘れているのではないですかということです。
それは、「いま・ここ」ということです。
「幸せ」は山の向こうにあるのではなく、私たちの「足もと」に、しかも「すでに」あるということです。
“雲晴れて のちの光と思うなよ もとより空に 有明の月”
この古歌は、「雲が晴れなければ光がないと思うのは間違いですよ。もともと、月は雲がかかっていようといまいと初めから輝いていたのですから」という意味です。
月は仏を表しているという説もあります。しかし、この月を「幸せ」と見れば、「自分は幸せでない(光がない)と思っているのは間違いですよ。もともと幸せ(有明の月)はあなたの周りに輝いているのですから」という意味にもなります。
つまり、私たちは足もとの幸せになかなか気がつかないということです。これは私たちにも納得できるのではないでしょうか。
病気をして初めて分かる健康のありがたさ、失って初めて分かるその人の大切さ、災害に遭って初めて分かる日々の暮らしの大切さ。
人間は何かと比べないと、それが幸せなのか不幸なのか分からないのでしょうか。
私たちの足もとにある幸せ。それは、いまこうして生きていることの中にあるような気がします。
幸せのキューピッド~感謝の心~
私たちは生きていることが当たり前と思っていますが、よく考えてみれば当たり前ではありません。様々な人やもののおかげで生きています。生かせていただいていると言ってもいいでしょう。
ありがたい
「ありがたい」というのは漢字で書けば「有難い」、つまり現在こうして有ることは難しい、簡単ではないということです。病気であれば、お金がなければ、助けてくれる人がいなければ、食べるものがなければ、住むところがなければ今の生活は得られません。まさに「ありがたい」と思わざるを得ません。
安心に包まれた世界
感謝の心は「有難さ」に気づくことでもたらされます。
そして、その感謝の心こそ「幸せ」を運んでくれるキューピッドです。
感謝は、自分はいつもこうして支えられている、どこかで誰かが見守っていてくれる、という思いから生まれます。つまり、一人ぼっちではないという感覚です。それは安心感につながります。もう心配しなくてもいいのだという安心感です。
仏教では幸せのことを「無憂」といいます。心配がないということです。つまり、こうしてみてくると、本当の「幸せ」というのは、心配のない安心に包まれた世界と言えるのではないでしょうか。
もちろん、厳しい環境で生きている人がいるのも確かです。しかし、そういう人であっても、幸せは見つけることは出来るし、そのことによって自分が救われます。簡単ではありません。しかし、真の幸せは多分その方向にあるのだろうと直感するのです。
本当の幸せは周りの人をも幸せにする
その心境になれば、幸せは次々と湧き出てきます。あらゆることが幸せの種になります。そして、本当の幸せは周りの人を幸せにしないではおきません。
「鳥の歌うが如く、おのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」(三木清)
私は過去に取材でこんな印象を受けた方にお会いしたことがあります。その方が本当に幸せだったのかもちろん確認するすべはありませんが、内面からにじみ出るものが、まさに「おのずから外に現れて他の人を幸福にする」ような印象を強く受けたのを覚えています。ですから、この三木清の言葉がリアリティを持って納得できるのです。
三木清「人生論ノート」