断捨離とは
断捨離ブーム
さまざまなモノであふれている生活。そんな生活からの反省でしょうか、「断捨離」をうたった片付け術がブームです。人とモノの関係を考え直してみようという精神的な背景も感じられ、また「断捨離」という言葉の潔い響きもあって共感を呼んでいるのかもしれません。
断捨離の対象は人間の欲望
「断捨離」という言葉は、もともとヨガの修行法(断行・捨行・離行)からきた言葉のようです。
断捨離が対象とするのは人間の欲望・欲求です。私たちには、生理的な欲求(食欲・性欲など)、所有の欲求(金・モノetc)、所属の欲求(地位や立場、家庭、組織etc)、承認の欲求(評価・称賛etc)、自己実現の欲求(理想実現・自分らしい生き方etc)などさまざまな欲望・欲求があります。
断捨離の意味
断捨離の「断つ・捨てる・離れる」はいずれも同じような意味で、上にあげたような欲望と自分との関係を断つ、こだわり・とらわれを捨て去る、思いを手放す、対象から距離を置く、そこから離れるということを意味しています。
欲望があるから執着する
欲望は生きるエネルギー
しかし、欲望が断捨離の対象となっているからといって、欲望そのものが悪いわけではありません。人間の欲望は正しく適切に発動されている限り、人間が生きていくための大切なエネルギーです。食欲をすべて断ってしまえば死んでしまいますし、自分を認めて欲しいという気持ちがまったくなくなれば、生きるための意欲も失われます。
問題は執着するこころ
問題は欲望そのものではなくその欲望に「執着」する心です。「執着」とは、一つのことに心が奪われてそこから離れられないことを言います。「とらわれ」とも言います。
執着には、
①自我への執着(私は自分の力で生きているという自分中心の世界観が執着を生む)
②モノに対する執着(自分が所有しているモノは自分のアイデンティティとなる。モノと自分が一体化し執着が生まれる)
③快への執着(どこまでも快を求め不快を忌避する心が執着を生む)
④所属への執着(一人きりでは生きられない、安心の場を確保したいという欲求が執着を生む)
⑤自己承認への執着(自分を認めて欲しいという欲求が執着を生む)
などさまざまな形で存在しており、私たちは気がつかないうちに執着にがんじがらめになっています。そして、その執着が悩みの根源である過剰な欲望を生んでいるのです。
こころの断捨離
とらわれを断つ・捨てる・離れる
断捨離はその執着から解放されるための一つの方法です。
ですから、表面的には欲望を断ったり、モノを捨てたり、社会的な立場から離れたりということになるのですが、根本的には、そうした「こころ」の中にある「とらわれ」を「断捨離」することに他なりません。つまり「こころの断捨離」ということになります。
断捨離で自由を手に入れる
そして、断捨離することによって、私たちは無意識にもっていた執着する心や甘え、自己中心的な考え方、依存心、慢心、無関心などに気づき、その結果、モノや人の価値、ありがたみ、感謝などが自覚できるようになります。そして、そのことによって初めて、とらわれのない自由なものの見方、考え方が出来るようになり、悩みから解放されるというわけです。
諦(あきら)める
断捨離と同じような意味で「諦(あきら)める」という言葉があります。
真理に達し迷いがなくなる
一般的に私たちは、「諦(あきら)める」という言葉を、悔いや心残りはあるが仕方がなく放棄する、ギブアップするといったニュアンスで使っています。
しかし、「諦める」の「諦(たい)」は、仏教では「真理」や「真実」を意味します。
だから、本来の「諦める」は、真実を「明らかにする」、さらに言えば「ものごとの真理に達し、迷いが無くなる」という境地を意味することになります。
積極的に断念する
繰り返しになりますが、「諦める」の一般的な解釈は、心のどこかに未練や迷いが残っていますが、本来の「諦める」は、ものごとの真実が明らかになり、“迷いが無くなった” 状態を言います。
そして、もう一つには “片をつける・断念する” という意味があります。つまり、「迷いが無くなる」ためには、これまでの考えに “片をつけ” きっぱり捨てる、つまり積極的に “断念する” ことが必要だということになります。